人間が可愛いものを殺せないが虫を殺す理由についての仮説

完全に下記に同意なので(挨拶)


http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/08/post_3aec.html
痛いニュースで、「子猫」を殺す作家の話があって、それが猛烈に批判されているわけだけど、それにたいして



なんでかフラメンコ-可愛くなければ殺してもいいのか、という問題

おろちょんさんが、

この手の話を猛烈に批判する人は、猫殺しがダメでゴキブリ殺しがアリとされる矛盾に気がついているのだろうか。



と論陣をはっている。



まぁ、確かに矛盾しているんだけど、ダーウィニズム的なモノの見方をすると、そう矛盾してはいなかったりする。



虫を嫌ったり嫌ったりするのは、人類の文化に普遍的にみられる。そのうえ、虫が動物のように偶像化されて崇拝されている例はほとんどない。



これ、おそらくは進化の過程で身に付けてきた心理メカニズムによるものだと思われる。



我々の遠い祖先は、おそらく森の中で暮らしていたのだろうが、そういった場所で生活する上で、問題になるのが「虫」の存在になる。



蚊やアブ、ノミ、しらみ、他の害虫に対して、我々の祖先は、殺虫剤なんて便利なものはもっていなかっただろう。だから、それに相当悩まされたのであろうのは間違いない。



虫一般を嫌うのは、多分、その頃のなごりであって、害虫に悩まされた祖先は、虫を嫌い、避け、見つけたらすぐ殺すような心理メカニズムを発達させたのだろうと思う。



虫の中には危険なのがいるが、それを見極めるほどの知性がなかったろうし。当時は。



我々が、ある種の虫に対して、ほとんど嫌悪感に近いものを感じるのは、そういう進化の中で獲得された心理的なメカニズムが、まだ我々の中に残っているからではないかと思われる。




一方で、「可愛い」生き物を人間が保護したがる性癖だけれど、この辺りは、何故「可愛い」という感情が、人間の感情の一つとして発達したか、が問題になる。



一番、可能性としてありえそうなのが、多分、「子供の保護」の為で、生まれてきた子供を人間の親が「可愛い」と思う場合、その子供を殺したり、見捨てたり、あるいは、食べたり(自然界では稀にあること)しなくなる可能性が高い。



つまり、「可愛い」という感情は、自分でエサを取れず、外敵に弱い子供を、人間の親に確実に面倒を見させるために発達した心理的カニズムではないかということ。



それゆえ、我々は「可愛い」を殺す存在に対して、強い違和感を覚えるのではないかという事である。



「可愛い」という感情が、進化の過程で、子殺し、捨て子を防ぐために発達させてきた感情だとするなら、痛いニュースで、子猫を殺した人に対して怒りを覚える人達の行動は説明がつく。



つまり、あの作家さんは、人々に

「子殺し、捨て子をしかねない人間」

という遠まわしな印象を与えてしまったのではないかという事。




というわけで、

「可愛いものを助ける人が平気で虫を殺す矛盾」



は、ダーウィニズム的には、合理的に説明できるのである。



生命倫理を抜かして、ダーウィニズムのみで説明するなら、まぁ、論理矛盾をすることなく、説明することも可能だよ、という話。



ただ、この手の進化論は、ナチドイツが素朴な形で応用して悪用したりしたから、あんまし強調するのは危険なんだけど。



といっても、戦争時には、どこの国も自国の素朴な優越性を強調するんだけどね。日本だって「神州不滅」だとか色々やってたし、アメリカだって「星条旗よ永遠なれ」だとか、今でも「第二次大戦は絶対悪との戦争だった」なんていう人もいるし。



というわけで、ひとつの仮説として、この話はこういう風に説明も可能ですよというくらいでお願いします。